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2006年11月

ガザ地区へ

2006年11月29日

朝9時ちょっと前にファイサルホステルで
パレスチナ子どものキャンペーンの石原さんと
待ち合わせ。昨日は、パレスチナ子どものキャンペーン
の活動視察でガザ地区を訪れました。

ガザ地区への訪問は8年ぶり2回目でした。

前回の訪問の時は大学を卒業したての卒業旅行で訪れました。
前回のガザ訪問が、そもそもイーココロ!を作るきっかけと
なったこともあり、今回の再訪は感慨深かったです。

8年前訪れた時は旅行者でも簡単に入れたのですが、
現在ガザ地区に入るにはイスラエル政府への事前申請が
必要です。今回、パレスチナ子どものキャンペーン
の支援者として申請して頂き、何とか入ることが
出来ました。

実は11月1日からイスラエルによるガザ北部への空爆が
続いており、すでに攻撃は終わっているものの、同じく
ガザ北部にあるエレツ検問所を通過出来るかどうかが
心配でした。しかし、タイミングよく11月26日には
イスラエルとパレスチナ間で停戦の合意の発表があったため、
これ以上ないタイミングで入ることが出来ました。

しかしガザは、エルサレムからの距離は近いですが
心理的には遠い場所です。

車でわずか1時間でガザの入り口であるエレツ検問所
に着くのですが、そもそもエレツ検問所までバスなどが
出ていないため、タクシーで行くしかありません。
この費用がばかにならず、片道9,000円近くします。

エレツ検問所を通過するには、これまた時間がかかり、
パスポートの提出、荷物検査などで1時間要しました。
早い人だと15分ほどで通過できるようですが、
石原さんと僕は厳しめのチェックを受けていたようです。
なお、帰りは2時間かかりました。

まずは検問所の敷地に入る前に簡単なチェック
があったのですが、

「ガザに入る目的は?ジャーナリストですか?」

「武器を持っていませんか?」

なんて聞かれるんですよね。
武器を持っていないかなんて聞かれるのは
初めてでした。

とにかく他のパレスチナ西岸地区の検問所とは
比べ物にならないチェックを受けました。

一通りの検査が終わると長い長い通路を通って
ようやくガザに入ることが出来ます。
ガザに入る前の方がハラハラドキドキでした。

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ちなみに通行者数は大変少なく、ガザ入りを
しようと同じように検問所に来ていた人は
10人もいませんでした。それほど制限されて
いるのでしょう。

ガザ内の移動は安全対策のため全てタクシーでした。
残念ながら情勢が不安定のため、市街を歩くような
ことは出来ませんでした。タクシーでも、本当は
助手席に座りたかったのですが、今年、外国人の
誘拐事件が何度か起きていることからも、後部座席
で我慢せざるを得ませんでした。

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パレスチナ子どものキャンペーンの石原さんによると、
イスラエルの攻撃よりも、ハマスとファタハなど、
パレスチナ人の組織同士の争いに巻き込まれること
の方が怖いとのことでした。

ということでパレスチナ子どものキャンペーンが
支援している組織の建物以外、車窓からしかガザの
様子をうかがい知ることは出来ませんでした。

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エレツからはハンユニスという南部の町へ向かいました。

まず、ガザのパレスチナ子どものキャンペーンが
支援している組織のセンターに行ったのですが、
たまたま物産展が開催されていました。

そこにいた人達がとってもて明るかったんですよね。
歌っちゃうし、踊っちゃうし、表情も明るくって。

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水も、電気も、食料も、石油も不足し、
海も、空も、陸も封鎖され、仕事もろくにない。

ガザ地区の人たちは、どんなに大変な思いをして
暮らしているんだろうって結構こちらは
構えていたのですが、そんな明るい人たちを見て、
なんだかほっとしました。

その後、訪問したコミュニティーセンターも、
子供たちはすっごく明るいし、お母さん方も
元気でした。

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話を聞いてみると、イスラエルの侵攻があった後は
子供たちは元気をなくしてしまい、暗い時もあるんだ
そうですが、今回訪問したコミュニティーセンター
ではそういった子どものストレスをなくすような
授業も行っていて、しっかり機能している様子でした。

お母さん方にインタビューすると、子どもが
10人以上いるというお母さんもいて驚きでした。

「そんなに子どもがいて、生活は大変じゃないですか?」

と聞くと、

「いえいえ。近所のお金持ちが食べ物を分けてくれたり、
いろんな面でサポートをしてくれるから大丈夫なんです」

なんて答えるんですね。

相互扶助がすごく発達していている社会なんですね。
金持ちが当然のこととして貧しい人をサポートする社会。

このセンターで4人のお母さんにインタビューしましたが
子どもの数の平均が確か7人前後でした。

こんなに不安定な場所で、経済状況も良くないのに
こんなに子どもがいることは驚きでした。

「子どもはお金と共に生まれてくる」なんていう
考えがあるんだって、後で教えてもらいましたが
考えが前向きですよね。

少子化問題を抱えるニッポン。
相互扶助や子どもを生む考え方など、
ぜひ輸入したいですね。

パレスチナ子どものキャンペーンの活動報告
については後日掲載します。

ナブルスへ

2006年11月28日

昨日も朝7時からまずはホテルで仕事。
朝起きたら即パソコンの前に座ってます(笑)。
日本の仕事をして、ブログを書いていると
あっという間に半日終わってしまいます。

大体こちらでは4時半にもなると暗く
なってしまうので、早く動き始めないと
全然行動できなくなります。

この日はやはりパレスチナの西岸地区、
ナブルスという町へ向かうことにしました。
イーココロ!では、以前よりナブルス産の
オリーブオイル石けんを販売しています。

ナブルスは石けんの生産で有名だそうです。
石けんを作ってる様子や、ナブルスで暮らす
人々を知りたいと思い、向かいました。

ナブルスに向かう途中、タクシーがエンジン
トラブルで止まってしまうトラブルもありましたが
ナブルスへはエルサレムから合計2時間も
かからずに到着しました。

やはり、ナブルスに入る前に検問所があり、
ナブルスに行くにはタクシーを乗り換えねば
なりませんでした。一度、タクシーを降りて、
一人ずつゲートを通過します。

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ナブルスについて早速、ナブルス石けんを
探しに町の奥へと入って行きました。
それがなかなか見つからずに苦労しました。

ようやく見つけて石けん工場を探すと、
「今日は閉まっている」ということで
目的を果たせずに終わりました。

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しかし、アラビア語ができないことで、
大変な損をしました。ランチに誘われたり、
一生懸命説明してくれているのに、分からない
から何にも理解できずじまい。

ナブルスでは、これまで訪れた西岸地区の
どの町よりもピリピリとした空気を
感じました。

特に、一部ですが大人の男たちの態度、
目つき、表情には殺気を感じるほどでした。

商店街を歩いていると、へんな男に呼び止められ、
服の上から僕に銃口を突きつけるしぐさを
され、ドキドキものでした。

どうも心にトラウマを抱えていそうな
精神異常者っぽく、恐らく殺意はなく、
本気じゃないと思ったので、無視。
振り切り、再び歩き始めると、追ってくる
ことはありませんでした。

その他、ライフルを肩からぶる下げている
猛者たちを数多く見かけました。
誰も知り合いがいない中、こんなところを
歩くのはちょっと不安を覚えましたね。

町中に、戦闘で死んだと思われる若者の
ポスターが貼ってあるし、異様な雰囲気です。
まあ、僕が行った時は比較的安定していた時
だと思いますし、基本的には平穏でした。

歩いてると、この町では30秒に1度は
声をかけられる勢いです。

「日本人?」「中国人?」「こっちへこい」

などなど。女性以外の大人や子どもが声を
かけてきます。

一人、とんでもなくしつこい子どもがおり、
身振り手振りと、ほんの少しの英語で、

「イスラエルが爆破した所があるから来てよ」

という。行って見ると瓦礫の山。
恐らくミサイル攻撃なんでしょう。
詳しく状況を知りたかったけど、ここでも
アラビア語ができずに残念。

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それから、2時間ほど歩き回り、
オリーブオイルとオリーブ石けんを買い、
エルサレムに帰ることにしました。

帰る途中、行きはすんなり通過出来た
検問所で今度は立ち往生。
1台1台、ナブルスを出る車をチェック。
1台当たり大体7分前後かかるから、
10台並べば70分。僕は1時間待ち
位でしたが、待っている間に20台ぐらいは
並んでいましたから、後ろは大変だったでしょう。

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ところで、ナブルスはスウィーツの
名産地らしく、とってもお菓子は
おいしかったです。

明日はガザ地区に向かいます。

ベイトジブリン難民キャンプへ

2006年11月27日

昨日は日本国際ボランティアセンターの活動を取材するため、
丸一日使ってヘブロンとベツレヘムの難民キャンプにいました。
詳細なレポートは帰国後書くことにします。

朝7時半前にはホテルを出発。まずはJVCの藤屋リカさんと
小林和香子さんと一緒にベツレヘムに向かいました。
ベツレヘムはエルサレムから距離にして10km程度ですので
本来ならすぐ着けるはずなのですが、やはりベツレヘムに
入るには、ターミナル型の検問所を通過しなければなりません。

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ですのでエルサレムからバスに乗り、まずはベツレヘムの
入り口にある検問所に向かいます。バスはこのままベツレヘムに
入ることができないため、全員がここで降りて、徒歩で
検問を通過し、出たところで乗り換えることになります。

エルサレムとベツレヘムを隔てるように、ここでも分離壁も
建設されています。この検問所は空港のように立派な建物でした。
ここで手荷物検査、IDチェックを行うわけですが、
大変な時間がかかります。こういうチェックを毎日受ける、
精神的な苦痛は大変なものだと思います。

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検問所を出て、すぐタクシーでベイトジブリン難民キャンプ
に向かいました。難民キャンプといっても、今では最大4階
建ての家が立ち並んでいるので「えっ?ここが難民キャンプ?」
と初めて来たら思うはずです。

ベイトジブリン難民キャンプは、1948年に第一次中東戦争で
ベイトジブリン村に住んでいた人たちが移り住んでできた
キャンプのため、すでに60年近く難民としてここに住み
続けているのです。だから、難民キャンプといっても、
テント生活をしているわけではなく、定住できる家が
立ち並んでいます。

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ただし、他の町と比べると建物が密集しており
車が1台も通ることができないほど、道路が極端に狭く
なっています。これは、かつてここに移り住んだ時に、
10mx10mの土地を与えられ、その上に建物を作って
行ったからだということです。

あと気付いたことは、建物の屋根(平らです)に
水タンクを置いていることです。理由を聞くと、
夏場に水が止まることが多いからだそうです。

井戸を掘ればいいじゃないかと思うかもしれませんが、
井戸を20m以上掘るには、イスラエル政府の許可が
必要になるそうです。パレスチナ自治区内であってもです。
逆に言えば、水資源までもイスラエルがコントロール
しているということです。

とにかく、ベイトジブリンでJVCが支援している
ハンナラ文化センターの女性グループの代表、
マナールとその妹で大学生のメルナと合流し、
取材を始めました。

取材の途中、メルナにいろいろ話を聞く
機会がありましたので書いておきます。

──休みの日なんかは、普段何をしてるの?

「例えば夏休みは3ヶ月あるんですけど、何もしてません。
やることがないから。家族と過ごすか、姉の手伝いを
しています。あっ、でも去年、一昨年はテルアビブまで
行っちゃいました」

テルアビブは、イスラエルの首都で、パレスチナ人が
入ることのできない地域です。男性が見つかって捕まると、
3年は牢屋から出てこれないなんてことを聞きました。

──どうやって入ったの?

「検問所を通らないでもエルサレムに行ける抜け道が
あって、そこを通って行きました。ちょっとした
冒険でした(笑)」

──テルアビブで何してたの?

「町を歩いたり、ビーチにも行きましたよ」

──大学では何を勉強しているの?

「英文学です。大学院は家族が許してくれ、奨学金が
取れればイギリスに行きたいと考えています」

──海外への渡航は問題ないの?

「今はイスラエルの空港からは、外国に出れないので
一旦ヨルダンまで行かねばなりません。ヨルダンから
だったら外国に行けます。でも途中、いくつもの
検問所があるから、本当に大変」

──大変だね。

「私の兄も大学生なんですけど、今は牢屋に
入れられています。何もしていないのに。もう
1年半も入っています。来年の7月には出てくるけど。
まず、罰金として3,000シェケルを支払いました。
それから、毎月400シェケル仕送りをしています。
刑務所では何でも有料なんです。食事さえも。
だから、家には大変な負担になっています。
パレスチナ人を捕まえることが、一種のビジネスに
なっているんじゃないかって、感じてしまいます」

難民キャンプで取材した、ある家庭の旦那さん
の給料は1ヶ月1,500シェケルでした。どの家庭も
子どもが多く、4人兄弟なんて当たり前。そこに
月収の4分の1ほどの負担をしなければならない
のは大変でしょう。

この日もとても考えさせられることが
多かった。もっと書きたいことがありますが
時間切れです。また書きます。

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?JVCの藤屋リカさん。小林さんには「お母さん」とも呼ばれてました(笑)

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?ヘブロンにて。馬車が健在です!

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?ベイトジブリンキャンプ内のご家庭にて。

憎しみの壁に囲まれた町、カルキリアにて

2006年11月26日

昨日は、単独行動です。
朝8時に起床。しばらく仕事をした後、朝10時に出発。
パレスチナ西岸自治区の北部の町、カルキリアに行くこと
にしました。人からの話などで、この町は壁に町全体を
すっぽり覆われてしまっている大変な場所だと聞いていました。

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?朝食は「ファラフェル」。ヒヨコ豆をつぶして揚げたものなどが入っている。

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?途中、検問所、分離壁などを目にする。どこに行くにも制限がある。

ところがカルキリアの中心部にあるバス停に入るまで、
壁らしきものは見当たりません。なんだか拍子抜けです。
どうしたものか、このまま帰ってしまおうかとも一瞬
思いましたが、せっかく半日かけて来たのだからと、
タクシーで探しに行くことにしました。

見つけたタクシーに、

「英語できますか?」
「シュワイエ(少しなら)」
「これを見たいんですけど。壁。」
「Ok。大丈夫。」

ということで、タクシーをチャーターして
壁を探しに行くことにしました。

まずは隣町のハブラというところに行きました。
ちょっと前まではカルキリアとハブラの間は
陸上を通過することができなかったそうで、
ハブラに行くまでにいくつかの地下道を
通りました。イスラエルが最近この地下道を
作ったとのこと。

ハブラの町の中心を抜け、郊外まで行くと、
高さ8mの壁が見えてきました。そこで一旦
タクシーを降り、撮影。運転手が、

「ほら、そこの家。彼らは壁によって土地を
奪われてしまったんだよ」

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壁はその家のすぐそこまで迫っていました。
憎しみの壁、アパルトヘイトウォールなどと
も呼ばれる分離壁。これを毎日見なければならない
心理的な苦痛は相当なものだと思います。
自分の土地まで奪われてしまっているし。

次はカルキリアに戻ることになりました。
運転手が、少しずつ話始めました。

「俺の金は全部イスラエルに奪われたんだよ。
家は10年前に爆破され、ペチャンコにされたんだ。
それまでは裕福な暮らしをしていたのに、
今では貧乏人だよ」

「日本は好きだよ。日本政府は困っている
我々に支援をしてくれている。感謝しているよ」

そんな話を聞いていると、突然車を路肩に止めた。

「ここの家、先週イスラエル軍に破壊されたんだ。
見ていくか?」

「もちろん」と答え、車を降り、彼について行きました。
そこには粉々になったコンクリートの破片が
散らばっていました。すでに家の輪郭は見当たらず、
ペシャンコ状態でした。

ショベルカーが瓦礫を集める作業をしており、
家の家族もその場にいました。気付かれる前に、
写真を撮っておこうと数枚急ぎで撮るものの、
すぐにその場にいた女性に気付かれ、
僕のところに歩み寄ってきました。

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「I want to show you. Come.(あなたに見せたい
から、ついて来てください)」

意外な反応でした。彼女の案内で、かつて
家があったすぐそばまで行きました。

「ここには4家族住んでいました。私の妹の
家族や父が住んでいたんです。イスラエル軍が
突然やってきて、家を破壊したのよ。

突然来て、荷物を持ち出す時間ももらえず、
お金も、服も、何もかも瓦礫の下に埋まって
しまいました。

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?破壊されてしまった、水タンク。

あそこの子は、結婚を控えていました。
結婚のために貯めたお金も全部瓦礫の下です。
赤ん坊は、裸のまま家を出なければならな
かったんです。どうぞここを見て、
多くの人に伝えてください。」



「ついて来て」と言い、彼女は敷地のさらに
奥のほうに僕を誘いました。

「水が止まり、農業で使う、水タンクも破壊
されてしまったから、作っていた作物が全部
ダメになってしまいました。どうぞ見て下さい」

と、ビニールハウスの中に僕を案内しました。
そのビニールハウスの中は、残酷な状態の
野菜で一杯でした。

作物が枯れ果てて、一面死の世界のように
なっていました。

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「もう1週間も水をやれていないんです」

これを見て、一瞬にして頭に電気が流れ、
その場で泣きました。

これまでビニールハウスの中で、大切に
作っていた作物が、全てダメになって
しまったのです。それに、農家で生計を
立てている彼らにとっては、大切な収入源
だったのです。

僕が泣いているのを見て、その女性が
言いました。

「私たちもみんな泣きました。この子も、この子も
(小さい子どもを指差し)。この子なんか、夜、
眠れなくなってしまったんです。イスラエル兵が
来ることを恐れて」



ここに住んでいた子どもの一人が、イスラエル軍に
連行され、未だ帰ってきていないそうです。
10歳ぐらいの子どもとのことです。

なぜ破壊されたのか聞くと、

「ここにハマスのメンバーがいると思ったんです。
武器が隠されていると。でも、メンバーなんていません。
武器なんかも出てきませんでした。テレビでも何も
出てこなかったことが報道されました」

彼女のお父さんは、テントの前でじっと座っていました。
なにやら握り締めています。何かと思うと
破けてしまったお金を大事に持っていたのです。

「こんなものしかなくなってしまったんだ。」

と僕に無言で訴えるようでした。



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僕は少しばかり寄付して、その場を去りました。
家の再建には相当なお金がかかるはずです。
4家族分の家の建設費用は誰が負担するのでしょう。

車の中で、運転手がまた静かに、でも
今度は感情的に話始めました。

「これが私たちパレスチナ人の生きている世界なんだよ。
イスラエルは俺たちをまるで動物のように扱っている。
まるで昔ヒットラーがユダヤ人に行ったようなことを
俺たちにやっている。ひどいものさ」

それから、カルキリア周辺の壁を見て周り、
運転手と別れ、エルサレムに帰ることにしました。






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「ところでお名前は?何歳なんですか?」

と聞くと、

「モハマッド・アブジャブ。32歳さ。4人の
子どもがいる。でも一日に稼げるのはたった50シェケル
(1500円ぐらい)。とてもやっていけないよ。
俺、40ぐらいに見えるだろう。ここでの生活が
辛くて、こんな顔になっちゃうのさ」

別れ際に握手して、写真を一枚。
いいやつだった。

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「俺のツアーどうだった?」

「最高だったよ。元気で」

僕はカルキリアを後にしました。

帰路の途中、いくつか検問がありました。
車を止められ、乗り合いタクシー全員が
イスラエル兵にIDカードを見せます。

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僕だけなぜか降ろされ、かるく尋問
されました。

「What's Up?」
 カルキリアで何してたんだ」

「君らが作った壁を見にいったのさ。
 ひどいことをするね。悲しくなったよ」

「何で俺たちが壁を作っているか知ってるか?
 なぜなら奴らが俺たちの子どもや赤ん坊を
 殺すからさ」

「そう言うけど、同じことをパレスチナ人
 だって思ってるんじゃないか?」

しばらくこんなやり取りをして、
タクシーに戻されました。

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?ターミナル型のチェックポイント。写真はエルサレムに入る直前にあるアタロットターミナル。

その後、ホテルに戻り、ホテルで
であった人たちと、一昨日行った
ビリンという村での抵抗運動のことを
題材にしたドキュメンタリー映画を見て、
その日はそのまま寝ました。
心も体もクタクタですわ。

パレスチナで見た抵抗運動

2006年11月25日

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ー西岸地区、ラマラにて。故アラファト氏のポスターが至る所で見られる。

再びホテルから書いています。
ファイサルホステルという安宿に泊まっています。

このホテルはバックパッカーだけじゃなく、イスラエルに
無暴力抵抗運動を行う国際連帯組織、ISMのメンバーも
多く泊まっています。それから、ジャーナリストもこの
ホテルに多く泊まっています。

ということで、パレスチナの情報を仕入れるには、
ここに泊まるのが一番なのです。それに、居心地が
いいです。ネットは使えるし、ラウンジでは紅茶が無料だったり。
オーナーのヒシャームさんは優しくて、パレスチナのことは
何でも知っているし。僕の部屋は10人部屋で、えらく臭いですが(笑)。

昨日は到着してすぐ、ISMなどがすぐ近くの村でデモを行うという
ので同行することにしました。場所は、西岸地区、パレスチナの
議長府があるラマラという町から30分ほど車を走らせたところでした。

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?村で出会ったパレスチナの子どもたち

デモに入る前に、村の中心人物からデモを行う理由について
説明がありました。それまでは彼らの土地だった農地を
イスラエル側が押収。今はフェンスを作り、農業が出来なく
なってしまっているとのことです。そこにみんなで行き、
「土地を返せ」と訴えるとのことでした。

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?トラクターにパレスチナ国旗を掲げるなど、デモの準備を行う

集合場所に行くと、次から次へと人が集まって来て、
最終的に100人近くなったでしょうか。世界中から集まった
デモの参加者、現地の当事者、そして数多くのメディア関係者。

デモ行動の一部始終を、パレスチナ国内外のメディア関係者が
写真や映像に収め、世界中にここで起こっていることを発信し、
不当な土地占領を止めさせようということが目的なのでしょう。

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?いざ出発。歌を歌いながらの出発でした。恐らく抵抗の歌。

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?いつの間にか大行列に。

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?フェンスに向かう途中、イスラエル兵が建物の裏に潜んでいた。

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?両方の国旗を合わせたTシャツを着るパレスチナ人。双方が平和に暮らせる日を願って着ているんだと思う。

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?イスラエルの陣取っている場所。鉄条網の奥に兵士。さらに奥にも多くの兵士が控えていた。

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?有刺鉄線を引っ張る活動家。

フェンスに到着すると、「撤退しろ」などと呼びかけたり、歌を歌ったり、
有刺鉄線を引っ張ったりと、様々な無暴力運動が行われました。
時折、イスラエル兵が催涙弾を撃ってくるため、爆音とガスに皆
一瞬ひるみますが、慣れっこという様子。催涙ガスをまともに
食らうと、相当つらいようですが、僕は大丈夫でした。

30分も押し問答を続けたでしょうか。
一部の活動家がエスカレートし、兵士の持っていた盾を
奪うなどの行動に出ました。さらに兵士を挑発する動きが
あり、怒った兵士が銃を構え、こちら側に飛び込んできます。

出てきた兵士に詰め寄り、執拗に何人かが訴えかけます。
英語で訴える人が多かったですが、一人ヘブライ語混じりで
かなり強い調子で訴えかけていた若い女性がいました。

後で話を聞くと、彼女はテルアビブ生まれのイスラエル人で
自分も過去は兵士として「向こう側」にいたそうです。

兵役が終わり、テルアビブに帰った彼女はある時、
パレスチナ人へのイスラエル側の力ずくのやり方に対する
不満が募り、
「このまま座っていたら、何も変えることが出来ない」
と、デモに参加するようになったそうです。

「テルアビブでは、あなたのように考える若者は多いの?」

と、プレスの人間が聞くと、彼女は、

「いいえ、そんなことないわ。多くの若者は何にも考えてないの。
みんな、考え始めて欲しいのよ。こんなひどいことをしていることに。
彼らから農地を奪ったら何が残るっていうの?唯一の収入源なのに。
それに村のすぐそこまで兵士を送り込んで、子供たちを傷つけている。
恥じるべきだわ。気付くべきなのよ。このひどいやり方に。」

一方の当事者としてパレスチナ人を苦しめて来た、彼女の
言葉は重みがありました。「ここにいる兵士に、自分たちが
何をやっているのかを気付かせたい」、と言っていました。

膠着状態が続くなか、一部のパレスチナ人の若者が、
僕のすぐそばで石を投げ始めてしまいました。
それに対し、イスラエル兵がゴム弾を発砲。かなり冷や冷やものでした。
一目散にパーっと逃げたりして(笑)。ちなみにゴム弾と言っても
銃弾の周りにゴムをくるんでいるだけだそうで、殺傷能力は
十分あるそうです。

こんなデモを始めて見ました。
やるべきか、やるべきじゃないかで言うと、やるべきだと
思いました。というのも、ここで直接的に政治を変えられなくても、
先ほど書いたイスラエル人女性のように、いつか考えを変える人が、
今はフェンスの向こう側にいる兵士の中から将来出てくるかもしれないから。

でも、無暴力、無抵抗が売りのはずのこのデモですが、
途中でパレスチナの若者が暴発してしまうんですね。
これは、まずい。せっかくのデモが台無しになってしまうと僕は思う。
パレスチナ人の大人は至って冷静に参加していましたが、
若者はコントロールできない様子でした。

このデモが終わり、村に帰る途中に潜んでいた兵士たちに
投石を行う別グループの若者、子供たちがいたため、
道を迂回しなければ変えれませんでした。
ここでもゴム弾と催涙ガスを撃っていました。

そういった催涙ガスは、民家の敷地の中にも落ちました。
家の玄関に、様子を見に一家総出で出てきた家族が
印象的でした。彼らにとって、紛争は自分の敷地で起こっているんです。

迂回して、元の道に戻ると、オリーブ畑から
たくさんの若者が兵士に向かって投石をしている様子が
見えました。小学生高学年ぐらいの子どもも加わっていました。

夕暮れ時、彼らの投石する後姿を遠くから見て、
これがインティファーダ(民衆蜂起)なんだと気付かされました。
彼らが出来る、ちっちゃな抵抗。石対ライフルの戦いは、
見る者の心を揺さぶります。

こんな戦い、終わらせなきゃいけない。























イスラエルに到着

2006年11月24日

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今、僕はイスラエルに来ています。
というか今、ホテルに着いたところです。

乗り継ぎの関係で、ここまで来るのに
24時間以上かかり、クタクタです。

フライトが午前3時ごろ着いた関係もあり、
テルアビブというイスラエルの首都で
しばらく時間をつぶし、ようやく
エルサレムまで来れました。

今回、約1週間ほどこちらに滞在しますが、
こちらで、パレスチナの支援活動を
行っているNGO、日本国際ボランティアセンターと
パレスチナの子どものキャンペーンの
支援活動の様子を取材します。

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写真は今朝出会ったテルアビブの
商店でバイト中の若者。
3年間の兵役を終え、現在は大学で
哲学を勉強しているとのこと。

「テルアビブは世界で最も安全な所だよ。
そしてみんな自由。政治とか難しいことは
考えずにここでは生きているよ。

でも俺はここで生まれたけどずっとここに
住むつもりはないんだ。何だかここは
嘘みたいな国だから。なんでも力ずくで
成り立たせるような。

ここにはずっと住みたくないね。
いつかオランダに住みたい。」

という彼。兵役のころは、戦車の指揮官
を務めていたそうです。その彼が、今、
こんなお店の店員をしている。

ここ、イスラエルでは、男性は3年、
女性は2年の兵役義務があるのです。
国民全員が兵士。どこに行っても兵士だらけ。
こんな国があるんです。

ユーヴォくんがやって来た

2006年11月20日

20061120.jpg

今日は雑誌、ecocoloのインタビュー取材で、
かわいいエコキャラ、ユーヴォくんがやって来ました。

ユーヴォくんが登場するなり、その可愛さに
感動して記念写真を撮っちゃいました。
こんなにほのぼのとした取材は初めてでした。

12月20日発売号の「Ecocolo journal」で
登場します。


昨日、一昨日は横浜国際フェスタで
うろうろしていました。

昨日、日曜日は講演をしましたが、多くの方に
ご来場頂き、感激!!

これからソーシャルベンチャーを起こしたい、
または関わりたいという人の何かのヒントに
なったとしたら、嬉しい限りです。

土曜日は、国際フェスタに行った後、
恒例となりつつあるイーココロ!のユーザー会議
を行いました。

今回は人数が増えたため、初回よりも
多くのアイデアが出ました。少しずつ順番に
実現していきます!


会議の後は懇親会へ。
近所の居酒屋で相当飲みました。
途中、国際フェスタで知り合った
NGOボランティアさんも合流。

「こういうの作りませんか?」
「それいいですね!」

大分盛り上がりました。
しまいには、僕から
全員、ダビンチに入社しようよ
とムリな提案も。

そして、居酒屋を出て、
カラオケへ行き、そこでも
飲み足りずに自宅へ皆さんをお連れし、
吐くほど飲んだのでした。

飲むのはほどほどにしないと。。

3回目、次回のユーザー会議は
来月開催です。

ソーシャルベンチャーという生き方

2006年11月17日

横浜に移ってからもう3社ぐらいベンチャーキャピタルの方がやってきました。「上場のお考えはありますか」って。昨日もお一人。まあ情報交換程度が目的なのでしょうがお声がかかるのは嬉しいですね。しかし、3年から5年で上場できるようなステージにはまだいないとも思うのと、上場して経営コントロールを失うようなことはしたくないから、今のところ上場の道筋が見えたとしても消極的です。いずれにしても、僕らのモデルが社会に受け入れられつつあるのかなあと、ちょっと嬉しいです。

それはさておき、明後日、横浜国際フェスタ2006で講演させて頂くことになりました。「ソーシャルベンチャーという生き方」という内容で依頼されました。ソーシャルベンチャーねぇ。一番成功しているモデルは、やはり先日ノーベル賞を受賞したムハマンド・ユヌス氏のグラミーン銀行ですかね。イーココロ!のご紹介をしつつ、そういった成功モデルもお話しようと思います。

ブログパーツ その2

2006年11月 7日

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鎌倉にとんでもなく面白い会社があります。その名も、面白法人KAYAC。給料をサイコロで決めていたり、他に類を見ないベンチャー企業です。

そんなKAYACさんは、面白いサイトを数多く運営されていますが、今日、「Blog Deco【ブログデコ】」で、イーココロ!ブログパーツをご紹介頂きました!

あと、当初、アメブロにはパーツを設置できませんでしたが、お願いしたところなんと今日からアメブロにもイーココロ!ブログパーツを設置出来るようになりました。皆さん、ご協力ありがとうございます!

ブログパーツでクリック募金

2006年11月 6日

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イーココロ!ブログパーツ」をやっと公開できました!
ブログを書いている方、ぜひ使ってください。(アメブロなど、一部使えないブログがありますが)

直接ブログで募金が出来るわけではありませんが、このブログパーツを使うと、参加できるクリック募金を次々に表示出来ます。さらに、イーココロ!会員ならご自分の寄付実績が表示出来たり、支援しているNGOをそのパーツに表示することが出来ます。

世界をより身近に!支援をより手軽に!
今後、様子を見ながら様々なタイプのブログパーツをリリースしたいと思います。

家庭を大事に。

2006年11月 2日

いじめによる子どもの自殺者は年々増えているんでしょうか。ニュースを見る限り、増えている印象を持ちますが、いじめによる自殺だったとしても、これまで学校側が認めてこなかったそうなので、現実のところは不明です。

統計は置いておいて、自殺の原因は、学校の教師、生徒にもあるでしょうが、僕はそもそも家庭にも問題があるケースが多いのではないかと思います。家庭がしっかりしていれば、自殺はかなり防げるんじゃないかと思います。家族にも相談しないで自殺してしまうケースを聞くと、特にそう感じてしまいます。

家庭が機能しないのは、親子で接触する時間が少なすぎるからではないか。はっきりいって、日本のお父さんは、家庭をオロソカにし過ぎているのではないか。会社勤めをしていると、通勤や残業、それに付き合いの飲み会などで自然と帰りは遅くなるものです。でも、それを理由に週末だけお父さんじゃあ、子どもの微妙な気持ちの変化なんか分からないでしょう。仮に、早く帰ったとしても、コミュニケーション取らなければ意味ないですが。

そういう僕も、23時にこのブログを書いているんですから、ダメな父親なんですが、例えば週に1日は、家庭のために早く帰る日を作ってもいいと思うんですね。例えば、毎週水曜日は●時までには会社の方針として帰らせる。ノー残業デーみたいな感じで。

だらだらと書いてしまいました。自分が親になったからかもしれませんが、日本の教育制度、家庭についてなど、思うところが多くなってきました。





募金サイト イーココロ!
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